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日本遺産ストーリー

【日本遺産 「ジャパンレッド」発祥の地-弁柄と銅の町・備中吹屋-】

吹屋にある赤い町並みの景観と魅力 吹屋にある赤い町並みの景観と魅力

岡山県中西部の吉備高原には「吹屋」という地区がある。ここに至るには、山間の険しい道を進まなければならない。山道を越えた先にある吹屋には、赤褐色の瓦で覆われた屋根に格子や外壁までもが鮮やかに赤く塗られた家々が立ち並ぶ「赤い町並み」が広がっている。

吹屋にある赤い町並み

吹屋は赤い顔料「弁柄」と銅が産出する鉱山町として栄えていた。また、かつてこの地方の物資が行き来する道路「吹屋往来」の中継地点でもあったため、吹屋の町は人とモノが行き交う物流の拠点として賑わっていた。繁盛した家々はその財力で職人を招き、立派な赤い外観の家を建てた。このような、地域の人々の活動によって作られたのが、全国でも珍しい「赤い町並み」の景観なのである。

ジャパンレッドを創出した吹屋弁柄(ベンガラ) ジャパンレッドを創出した吹屋弁柄(ベンガラ)

海外の多くの人々が、日本のイメージカラーを「赤」と認識している。赤は古くから生命や神聖なものと結び付けられてきた。そのため、九谷焼や伊万里焼といった陶磁器、輪島塗や山中塗の漆器など、日本の様々な伝統工芸品に赤色が用いられてきた。その着色に用いられたのが、備中吹屋で作られた赤色の顔料「弁柄」である。この弁柄で塗られた日本の工芸品は海外で高く評価され、弁柄の赤が日本特有の赤色すなわち「ジャパンレッド」として認識されるようになった。

弁柄は銅山で産出される鉱石を原料としている。加熱や粉砕など様々な工程を経て赤い粉末状の弁柄が作られる。吹屋では江戸時代(1603-1868)中期から弁柄が製造されていた。陶磁器や漆器への着色や建造物・船舶への防腐塗料としても用いられていた。そのため、吹屋の弁柄は全国に広く流通していた。

鉱石を原料として弁柄(ベンガラ)を作る道具

国内屈指の銅(あかがね)の生産地である吹屋の吉岡銅山 国内屈指の銅(あかがね)の生産地である吹屋の吉岡銅山

かつて吹屋で多くの銅が産出され繫栄したことは、この地域に伝わる民謡にも歌われている。また、伝承によると吹屋の吉岡銅山は807年に開かれ、戦国時代には有力大名たちが銅山の争奪戦を行なっていたという。江戸時代(1603-1868)中期には後に財閥として名が知られる住友家の前身である大坂の商人、泉屋が吉岡銅山を経営した。この頃の銅の産出量は国内屈指であった。明治時代(1868-1912)に入ると住友家と同じく財閥として有名な三菱商会が吉岡銅山を買収した。三菱商会は多くの資金を投入し、外国の先進技術をも導入した、近代的な銅山経営を行なった。この経営手法は後の鉱山経営の見本となった。

銅

吉岡銅山は1972年に閉じてしまったが、現在も鉱山跡地には坑道やトロッコ用のトンネルなど、かつて銅鉱であったことを思い起こさせる遺構が残っている。このように、吉岡銅山はかつて日本を代表する財閥が経営していた、貴重な産業遺産なのである。

吹屋弁柄(ベンガラ)と銅山の隆盛を体感できる空間 吹屋弁柄(ベンガラ)と銅山の隆盛を体感できる空間

吹屋の町は下谷から下町・中町・千枚までの約1.5kmにわたる地区が国によって選定された「高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区」となっている。赤褐色の瓦や弁柄で赤く塗られた格子の家々が立ち並んでおり、このエリアを散策すると鮮やかな赤色に彩られた異空間を体感できる。吹屋には弁柄の製造に携わった「旧片山家住宅」や弁柄製造の流れを学べる「ベンガラ館」、また「旧広兼家住宅」や「西江家住宅主屋等」といった弁柄産業に携わり多くの富を得た人々が建てた豪華な屋敷も建っている。吹屋は弁柄産業と銅山が大きく発展していたことを伝える施設や建物を見学できる場である。その他にも明治時代の小学校「旧吹屋小学校校舎」といった明治から昭和にかけての建物があり、まるで銅山が栄えた時代にタイムスリップしたかのような気持ちになれる。

近年では、日本でも珍しい「赤い町並み」を活用したイベントが行われ、多くの観光客が吹屋を訪れている。夜、道に沿って灯篭が並べられ幻想的な町並みを演出する「吹屋ベンガラ灯り」や、吹屋の魅力をアートで表現する「吹屋ベンガラアート展」、さらには自転車レース「ヒルクライム大会」も行われている。吹屋では豊かな自然と、弁柄と銅山の町という特徴的な歴史・文化を生かし、魅力発信に取り組んでいる。

弁柄(ベンガラ)産業で富を得た西江家住宅 所在:岡山県高梁市成羽町
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