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コラム

【前半】ジャパンレッドを生んだ町・吹屋の歴史を探る

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【前半】ジャパンレッドを生んだ町・吹屋の歴史を探る
備中高梁駅から車で40分ほど行った場所に、今回の舞台である吹屋地区があります。高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区)でもあるこの町並み、弁柄(以下、ベンガラ)と銅(あかがね)で栄華を誇った地域をまとめて、2020年には日本遺産「『ジャパンレッド』発祥の地~弁柄と銅の町・備中吹屋~」にも選ばれました。
一体なぜこのような町が作られたのか、そしてどのように守られてきたのかを深く知る人はそう多くないかもしれません。しかし、吹屋は歴史と文化の集積地であり、各地の伝統工芸にも大きな影響を与えた、日本にとってなくてはならない地域でした。 ガイドの戸田 誠さんにお話をお伺しながら、吹屋が赤い町になった成り立ちを探り、当時を感じられる歴史スポットを巡ります。





この地には日本有数の銅山があった
まずこの地を語る上で最初に理解しておきたいのが、銅山の歴史です。
江戸時代からはじまり昭和47年まで続いた「吉岡銅山」は、様々な財閥の手によって銅の採掘が行われました。
開孔はさらに古く、大同二(807)年という年号が文書に見え、当時は銀を彫っていたという記録があります。


戦国時代、尼子氏や毛利氏の所領となり、江戸時代に入り天領となってからは、様々な家が銅山経営を行います。中でも大坂の豪商・泉屋(後の住友)が経営に携わった時代に西国一の産出量となり、その後、岩崎彌太郎(三菱商会)により資本投入され、近代的経営へと変革した時代には最盛期を迎え、吉岡銅山は“日本三大銅山”とまで言われるようになりました。


当時、岩崎彌太郎が遺した三菱のロゴマークが残る場所もあります。
伝建地区の千枚エリアにある山神社の、鳥居の扁額や玉垣に刻まれたスリーダイヤです。
神社のご神体はすでに近くの「高草八幡神社」に移されているため、ここには社殿が残されているのみ。
しかし、当時の発展と吹屋の繁栄の歴史を感じさせてくれるスポットです。



栄枯盛衰を繰り返しながらも日本の産業の一端を支えた吉岡銅山。吹屋ふるさと村から車で10分程度の場所にあり、現在は鉱山跡として見学することができます。トロッコを走らせたトンネルや精錬所など、石やレンガを積み上げたかつての遺構が遺されています。このレンガは銅鉱石を製錬する際に生じる廃棄物から作られた「からみレンガ」で、この遺構の建築物そのものが、ここでたくさんの銅が産出されたことを物語っています。



銅の副産物“ベンガラ”から生み出された『日本の赤』
銅山であったこの町と、赤い町並みがどうつながるのか…。その答えに最も近い場所は「笹畝坑道」でした。


笹畝坑道は吉岡銅山の一部であり、観光用に公開された銅の採掘跡。私はここを過去に訪問したことがあったのですが、その時は大事な場所を見逃していました。
笹畝坑道でとても大事な場所は、“ここ”です。

“ここ”とは坑道の奥、銅と共に硫化鉄鉱(磁硫鉄鉱)が地表に現れている場所。
笹畝坑道では、当初は銅の採掘を行っていた場所でしたが、それと共に硫化鉄鉱が産出されるようになります。銅採掘をする上で硫化鉄鉱は不必要な存在で、元々は捨て置かれていた鉱石でした。
ところがこの硫化鉄鉱こそ、「ローハ」の元で、このローハにより、赤い顔料「ベンガラ」が作られることになります。
こうして吹屋地区は、豊富な資源を活用したベンガラの一大産地となっていき、地域全体の産業として大きな発展を遂げ、巨万の富を築いていきます。銅鉱山がなければベンガラは生成されず、またベンガラなくしては、この歴史的な景観「吹屋」は生まれませんでした。

そのベンガラを知るために、ぜひ訪れていただきたいのが「ベンガラ館」です。
現在はベンガラ製造の工程を見せてくれる博物館となっていますが、ここはベンガラ工場を経営していた田村家が、明治時代に実際に使っていた工場跡地です。


ベンガラは、日本では古くから珍重されていた色素。それまでは輸入されていましたが、吹屋で「ローハベンガラ」が発見され、日本で初めてのベンガラ生産が行われるようになり、日本の各地で「国産ベンガラ」が扱われるきっかけともなりました。建造物の漆喰に混ぜて、または木材の塗料として、漆、陶器の絵付け、化粧品などにも利用されていました。
当初素朴な方法で作られていたベンガラも、この工場跡地のように大量生産ができるようになったのは、地域の産業として組織的に作られるようになったからこそ。ベンガラ生産者らは「株仲間」を結成し、ローハの扱いや製品加工に関する一切を町全体で関わっていたことも、吹屋の繁栄の一因でした。


こうして大きな産業となっていった吹屋のベンガラ製造ですが、銅山採掘にあたって無用の産物であった「硫化鉄鉱」からローハベンガラを発見したのが下谷の柳井家(諸説あり)です。当初は捨て石であった硫化鉄鉱をもらい受け、川沿いの工場で生産を行っていた場所も見学ができます。ベンガラ館と併せてまわると、より実感が湧いてきます。


それから数十年後、谷本家、西江家が長門の国から原弥八を招き、硫化鉄鉱から「ローハ」を凝結させ結晶化することに成功。そこから大々的なローハ及びベンガラ製造が行われるようになります。
ローハを生み出した家のひとつである西江家は、今でも訪れることができるスポットのひとつ。
長い坂道を上ると、大きな門が見えてきます。


西江家はローハ製造を行っただけでなく、幕府代官御用所も担っていました。横幅25mにもわたる大きな楼門がその格式をものがたり、内部には昭和まで作られていた時代の本物のローハやベンガラも残されています。



元々坂本村の庄屋でもあった西江家には、立派な郷蔵も残されており現在は展示室となっている他、銘木をふんだんに使った主屋が今でも美しく整えられ、煌びやかな派手さとは違った、上品な佇まいを見せています。
現在も住まいとして利用されていることから、見学は要予約となっています。


豪商邸宅「旧広兼邸」は、まるで城郭のような江戸時代の石垣が圧巻。ローハ製造で栄華を誇った商家で、内部見学可能です。山を背負うように立ち、高台からの見晴らしも抜群。


大正、昭和に増築された建築物を含め、当時の豪商の暮らしぶりを見ることができる貴重な建物です。




ベンガラ製造で大きく発展したのは「旧片山家」。日本遺産の構成資産の中でも唯一の「国の重要文化財」です。
片山家は宝暦9(1795)年からベンガラ製造に関わった豪商で、間口も広く贅沢な造りの主屋やベンガラ製造が行われた弁柄蔵(仕事場)、米蔵などが公開されています。



なまこ壁に施された漆喰止めは各所で違いがあり、様々な意匠を見ることができます。奥にはベンガラ製造を行っていたままの赤く彩られた作業場や、作業している人々の写真が展示されており、当時の様子を今に感じられます。




「旧片山家」は吹屋ふるさと村の中に位置しており、町並み観光の中でまわりやすいスポットともいえます。
他の町屋の意匠と比較しながら歩くのも楽しいですね。

歴史を紡いだ人たちの息吹を感じる町・吹屋を巡って
吹屋地区に点在する豪商の家々や神社仏閣は、実に保存状態が良いものが多く、見ごたえある歴史スポットが点在しています。
案内看板や駐車場、案内地図なども備えられているので、とてもまわりやすい観光地です。

高品質な「ベンガラ」は、日光東照宮の建造物や九谷焼などの上絵付けなどの日本の文化を芸術の域まで昇華させ、今に継承される伝統と技術の一翼を担った日本の大切な宝であるともいえます。日本人として知っておくべき歴史を実際に目で見て体験することができる、魅力あるスポットです。
何よりも吹屋で暮らす人たちが吹屋のことを愛しているということ、そして今につながる時代のストーリーの価値を認識し、保存していきたいと望んでいる気持ちが伝わってきました。
<吹屋の未来は明るい。>
そう思えた歴史旅でした。



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